「アイム・ノット・ゼア」を性懲りもなく三回観た。一回目は離婚シーンの演出で涙し、二回目はjazz&folk festival後にかかった「Positively Fourth Street」の後ろ向きな歌詞とそこから距離を置いたようなキーボードの旋律に涙し、三回目は監督が結局ディランをどう捉えているかを酔っぱらいながら考えた。(いくつかのサントラは除き)映像によるディラン・ファンへのサービスは自粛され、構図や審美的要素、あるいはカットつなぎ、カメラの移動などで観客を驚かせようとはせず、ただ象徴と暗喩と引用によってディランという人物の要素を表象させ、無数に散りばめられた「意味」によって観客に解釈を迫る、頭脳系映画。「フェイク」。「フォーク→ロック(アコースティック→エレキ)」あるいはビッグバンドへの移行。文字通りのプロテストソングに対する「裏切り」。愛・倦怠などといった「普通の主題」への無関心。友人に対しても徹底的に批評してしまう下劣さの自覚。詩性と煙巻きの間。複数の名前(格)。などなど、やはりこれは「僕はもうそこにはいない」という、拘束から自由ではあるが何とも孤独な映画、ということでいいのか?でもそう言いきれない何かはある。中でも、ギア扮する「アウトロー」パートの解釈ができない。無法者が無法者を裁くことや、ホームタウンからの移動という主題はペキンパーの「ビリー・ザ・キッド」で、パット・ギャレットと「ミスター・ジョーンズ」をダブらせているのもわかるが、あの棺桶に入った少女やギアが被る仮面、ギアが遠く見つめる森林とそれに被さる戦争の映像が表象するところが理解できなかった。わたくしがにわかディラン・ファンだからか?映画を「理解」とか言うのは不可思議だけれど、これはそういう風に観る映画だろう。とりあえず、オバさんスレスレのラインでかっこよいケイト・ブランシェットと、それにかぶさるStephen Malkmusの「Maggie's Farm」「Ballad of A Thin Man」、あきらかに無骨な仕草でディランのゴスペル風の曲を歌うクリスチャン・ベイル、「Goin' to Acapulco」を絶唱する白面のJim James、Yo La Tengoの「I Wanna Be Your Lover」などなどが三回も足を運ぶ原因になってるのは間違いないんだが。
今週中にやる仕事が降ってきた。「10+1」でやったやつの英語版。ひー
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