2008年6月アーカイブ

ようやっと重い腰を上げて展示の話をし始めた、というかDada島に尻を叩かれたのだが、そろそろ展示場所について考え始めなければならないという話になり、しかし、こちとらその展示でデザイナーとしてギョーカイにアッピールしたいなんてサロン主義的なことは飯の粒ほども考えていないし、完全にEVERYBODY向けの展示にしたいというか、全く審美的な展示ではなく、デザインの「方法」のほうを世のデザイナー達にぶつけたいわけではなく、敢えて言えば、それではまだ不十分で、現代人が現代人として生きている現在を、現代人達に「伝える」ことが主眼であるので、どうにも画廊とかギャラリーとかいった空間は適さないように思われる。むしろ、ギャラリーやミュージアムとはEVERYBODY向けの場所であるべきではないかという問いも浮上しそうだが、ともかくその問題のブレイクスルーが懸案。一瞬、飲み屋とかどうよ、と思ったが、飲み屋で見てもらえるようなデザインを突き詰めたら面白そうとか思った瞬間に、何か理論陶酔している臭いがしてやめた。

木曜深夜にチミノ『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』@DVD。超・非経済的な『天国の門』で会社を潰して映画界全体にトラウマを波及させ、監督としてダメになったのかと思いきや、撮影ヴィルモス・ジグモンドと別れてほぼチームを一新したにも関わらず、あくまでも傲岸に復活を遂げるなんて、この人はこの映画のミッキー・ロークばりにいい意味で頭がイカれてるとしか思えない。これでブレイクしたらしいジョン・ローンは『ラスト・エンペラー』より断然良く、虚勢を張る脆弱な若い知的男性を、思わず「完璧だ」と呟かせてしまうぐらいの名演。誰が何と言おうが、誰を巻き込もうが、ご都合主義であろうとも、自分のジャスティスを貫き通す傲岸極まりないこの刑事は、ミッキー・ロークでしかできず、彼なしでは映画自体が成り立たない(と思っちゃう)。『ディア・ハンター』の結婚式や、『天国の門』の卒業式、ローラースケートのシーンのような過剰さが消えたかな?と不安になったりはしたが、そんなの関係なく、ラストの対決は、もう「ワハー」と口を開けて陶酔するしかない。

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何週間かぶりにゼミに出席。地道にリサーチしてて好感を持てる人たちがいる一方、全く無責任な発表に憤慨ボルテージが上がってしまったが、いつもながら最高に鋭くかつ温かいT村さんのツッコミに心から同調しつつも自分の大人げなさを恥じ入ったし、この何度となく感じるようなダブルバインドは実は精神的に良いことに最近気づき、ダブルバインドさえ感じない状態が人間最も恐ろしい空白状態なのだと悟るに至ったため、結局、来て良かったのだと思い直す。
夕方過ぎまで、最近ほっぽらかしていたリサーチのことを考えながら、所属するべき学会のことについて調べていたのだが、どうにも学会というやつは魅力ゼロで、結局Firefoxのウィンドウを一斉に消す始末。なんだかなー。それにしても「博士」というレッテルは全くの邪魔に他ならない。いや、取りますけどね。「博士課程です」というと人が一歩引くのがわかってしまうので、全く孤独な世界。
すっかり「いつもの帰り道」になってしまった豊洲→勝鬨橋→築地→銀座へと歩く。今日の重苦しい空のせいか、勝鬨橋から築地市場越しに見える汐留の高層ビルがやけにメタリックに見え、超かっこいい。
渋谷に移動し、シネヴェで吉田喜重「水で書かれた物語」。自分の母親と婚約者の父親が関係を持ち続けていることに振り回され、その婚約者の父親の監視下に常に置かれていることに苛立つと同時に、キャメラの視点も監視の視点を代替するかのような俯瞰・俯瞰の連続で、もういいよってぐらい心を揺さぶられて、その上単身者にはつらい岡田茉莉子と浅丘ルリ子の美しさが加わったりして、もうなんかよくわかんない涙さえ覚えたのに、ダメ押しで「いつ終わるんだ」というぐらい展開が変わって、キャメラと照明も異常な領域にまで達し、激しくダウナーになる。3時間は経ったかと思ったのに、時計を見たらきっちり2時間だった。疲労。おっそろし。
昨日ぐらいから、予定あと1年半の戦略を考え始めた。結局、今ある手持ちの駒だけでやるのは嫌なので、困難だがワクワクする方になるだろう、と。果たして論文に適するかどうかはビミョーですが。

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オーキャンが終わった翌朝、勤務と研究と請負仕事と私事の「バランス」が偏り、そこに感情的な遠心力も加わって重力に似た疲労感に襲われ、週一回のゼミを休むという始末。どうも最近自律的ではないと猛・自戒。結局、自分が「やるべき」と思っている地点に自分が追いつけていないことが原因。自律的でないならば、学生なんてやっている意味が全くないではないか!火曜からは姿勢を正し、新生したかのような錯覚をリアルな認識へとスライドさせ、勤務(ムサビ)やら請負仕事(「TOKYO METABOLISM 2010 encyclopedia」の英語化)やらお勉強(英語)やらに全力を。とりあえず他律的な仕事を勢いで片付ける。「TOKYO METABO」の英語版レイアウトを終了。イギリスに送るらしい。3月に行ったQ-Designのお二方のインタビューのテープ起こしをついでに終了。外からの情報が多かった戦前・戦中から、戦後になって一気に情報量が減り、アメリカから時代も何も整理されていないブリコラ状態の資料を仕入れ、それを自分なりに分類して肥やしにしていく様はまさに情報戦のよう。アメリカ経由の資料しか手に入らなかったため、それを唯一の情報として積極的にポジティヴに受け止めていくという60年代の状況から、デザイン会議からオリンピックへと盛り上がり、万博で代理店に牛耳られていく60〜70年代の状況をお聞きすることが出来た。さて、これを踏まえた上で、00年代の我々は若きグラフィックデザイナーを巡る社会的状況をどう捉えるべきか?

ドゥボールのDVDが届いたが、まだプレイヤーがなし。
チミノの「ディア・ハンター」を見る。不意の逸脱を撮らせたら天才。全裸で町を疾走するデニーロ。ガリッガリのクリストファー・ウォーケンはもちろん、(撮影直後に亡くなった)ジョン・カザルが最高にハマってる。素人とプロを共存させたキャスト達に無意識的な友情を芽生えさせ(決して映らない彼らの財布に集合写真を入れたり)、ベトナム戦争出征前の男達が「Can't take my eyes off you」を酒場で合唱するシーンをリアルタイムで撮ったり、結婚式のシーンを実際の現地の住民や牧師達に演じさせてロシア正教の結婚式を見事にフィルムに定着させ、ダンスシーンでは実際に酒を飲ませ酔っぱらって踊らせて自由に演技させるという撮り方はカンと寛容の結実で素晴らしきことこの上なく、最高に楽しそう。映画館で見たら間違いなく落涙ものだろうな。友人の酒場に戻ってきて(本当はそれしか弾けない俳優が弾く)ショパンのピアノをみんなで真顔で聴くところなんかたまらない。決して派手ではないダイアローグでそれとなくジワジワと人間関係を浮き彫りにしていく辺りはウマイという他はない。

歩行最高記録: 豊洲→水道橋。人間は190円を節約するためには2時間歩かなければならないらしい(別に節約するために歩いているわけではないが)。

Cャーリーと若粟が素晴らしいプレゼントをくれた。ありがとう。もちろんアイロニー。

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身体が軽くなっていくのと同時に、精神的な軽やかさが脱色されていき、何やら真面目なことしか言いたくない雰囲気になってしまい、これもオープンキャンパスで忙しいせいだと思っているのだが、それだけではなくて、人生の転換点に来ているというか、博士課程も二年目になり、年齢も今年27歳になるらしく、「お前そろそろ後ろを振り返らずに自分全開でやってみろよ」という内なる声が聞こえてきて、それに自分を乗せていこうとしているというか、色々なことにもっとカロリーを使っていこうというか、自分が日々如何に省エネで生きていたかを反省したし、変に後ろ向きな姿勢はカッコよくないと思い、やはりディランの「Positively Fourth Street」は泣けるけれどもいつまでも聞いていてはいけない歌なわけで、軽やかさは失いたくないけれどもとにかく全開で生きていこうと糞真面目に思っている次第であり、要するにもっとポジティヴな力で周りの世界に働きかけていきたいという所信表明であり、私を育ててくれたムサビの視デというところは、ちょっとウブすぎるところはあるかもしれないが、自己と社会が接する界面で発生したどうしようもなくドロドロとした悩みと葛藤する中で超難産で作品を産み落とし、それによってデザイン界を取り巻く無駄にネガティヴで衒学的な言論をブチ壊していく力のあるところであり、今、改めてそれを見習おうと思っている。

あー、愚直だなあ。

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「アイム・ノット・ゼア」を性懲りもなく三回観た。一回目は離婚シーンの演出で涙し、二回目はjazz&folk festival後にかかった「Positively Fourth Street」の後ろ向きな歌詞とそこから距離を置いたようなキーボードの旋律に涙し、三回目は監督が結局ディランをどう捉えているかを酔っぱらいながら考えた。(いくつかのサントラは除き)映像によるディラン・ファンへのサービスは自粛され、構図や審美的要素、あるいはカットつなぎ、カメラの移動などで観客を驚かせようとはせず、ただ象徴と暗喩と引用によってディランという人物の要素を表象させ、無数に散りばめられた「意味」によって観客に解釈を迫る、頭脳系映画。「フェイク」。「フォーク→ロック(アコースティック→エレキ)」あるいはビッグバンドへの移行。文字通りのプロテストソングに対する「裏切り」。愛・倦怠などといった「普通の主題」への無関心。友人に対しても徹底的に批評してしまう下劣さの自覚。詩性と煙巻きの間。複数の名前(格)。などなど、やはりこれは「僕はもうそこにはいない」という、拘束から自由ではあるが何とも孤独な映画、ということでいいのか?でもそう言いきれない何かはある。中でも、ギア扮する「アウトロー」パートの解釈ができない。無法者が無法者を裁くことや、ホームタウンからの移動という主題はペキンパーの「ビリー・ザ・キッド」で、パット・ギャレットと「ミスター・ジョーンズ」をダブらせているのもわかるが、あの棺桶に入った少女やギアが被る仮面、ギアが遠く見つめる森林とそれに被さる戦争の映像が表象するところが理解できなかった。わたくしがにわかディラン・ファンだからか?映画を「理解」とか言うのは不可思議だけれど、これはそういう風に観る映画だろう。とりあえず、オバさんスレスレのラインでかっこよいケイト・ブランシェットと、それにかぶさるStephen Malkmusの「Maggie's Farm」「Ballad of A Thin Man」、あきらかに無骨な仕草でディランのゴスペル風の曲を歌うクリスチャン・ベイル、「Goin' to Acapulco」を絶唱する白面のJim James、Yo La Tengoの「I Wanna Be Your Lover」などなどが三回も足を運ぶ原因になってるのは間違いないんだが。

今週中にやる仕事が降ってきた。「10+1」でやったやつの英語版。ひー

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「10+1」でスカイスクレーパーを描いて下さった皆様。
例のブツはオープンキャンパスまでに間に合わせますので、あまり期待せずにお待ちください。
若粟に誓ってしまったので、やってます。
多分、A2です。
「メモリが足りません」。

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