日記を書かないのは、決して何かに落ち込んでいるわけでも鬱々と引きこもっているわけでもなく、むしろ状況は逆で、忙しくも刺激的な日々を送っている中で、考えをまとまった文章として定着する前に、もう少し思索に時間を割きたいという欲求の現れであるし、自分の報告をする場所=webサイトを非公開ながら他に2つ持ってしまっているからでもあるし、何しろ最近は、昨年までよりもオーラル・コミュニケーションの頻度が大幅に増加しているために、そちらの方を多いに楽しみたいという気持ちが現れてきたからである。口頭による伝達行為は、思索を巡らす中である種の迷いを切り捨て、「言葉にしてしまわなければならない瞬間」が存在する。僕はやっぱり、なんやかんやと話しを広げていくのは苦手のようで、話しを広げようとすると結局もとの話しに戻ってしまい、そういった思考も鍛えたいとは思うけれども、ただ単純かつ核心的なことを突くほうがナチュラルなようである。
研究室にいると、学部生の社会的・歴史的に無知で不器用ではあるが故に鋭利で直截的な意見を目に・耳にする機会が多く、その度に帯を締め直し原点回帰する必要性を胸に抱く。研究を続けるということは、物事を知ることの重要性と同程度に、物事を忘れ、自分の意見を強くする意志の重要性を伴う。何しろ、歴史というのはmisreadingの体系であり、本を読もうが所詮意見は自らの作り出すテクストの中にしか存在しないのだから、歴史読みの正確さなど「ほどほど」で良いのである。歴史読みの重要さは、事実の記述の正確さではなく、論理と議論の中にあるのである。ただ、歴史を正確に解きほぐしていく行為の中で、辿り着く核心的な重要物というものがあるのだから、ただ単に自分の意見を言いたいがために、いい加減に歴史を引用していいわけでは決してないのだ! と、今僕はこう書きながら自分に言い聞かせているのであるが。
最近の出来事:
芝浦が麻疹のために1週間半休校になり、そのためにできた余暇で多少映画を観れた。あまり期待をしていたわけではないが、「パッチギ」にはしてやられた。荒々しいがひさしぶりに活劇というものを見たし、誰しもが生まれながらに持つ、先人の行った過去に対して自分が悪いわけでもないのにそれを償わなければならないまでではないが、少なからぬ罪悪感を持たなければならないという何とも馬鹿馬鹿しいジレンマを描き出しているではないか。「ゲロッパ」にあった停滞感もなく、テンポの良い編集に、いつしか映画に参加してしまった。「スパイダーマン2」は随分とB級だった。摩天楼をブランコ的運動で飛び回る爽快さは否定できないけれども。