復調を宣言したものの、体調がまだ外界の寒気に対応できず、外出しようと思って数分ほど歩き、震えや差し込みを覚えてこれは無理だと判断し、急いで引き返す日々が2日ほど続いた。というのも待ち合わせや仕事など社会的な用事が全くないから大事はないのであるが、今日は展示資材の申請をしなければいけない期限だったので、ただ用紙に氏名とクリップライトの数「35」と書いて提出するだけのために学校に行く。ついでに図書館に本を返す。
途中でTPカトケン氏に会い、例のフランス図書館報告会をやるらしいとのことなので、論文に関係もあるのでいい機会かと思い、ふらっと顔を出す(呑気)。最後に本庄さんから新図書館構想の議論が出たが、資料は活用されない限り死蔵となり、作家は歴史的に死に、図書館は単なるブラックホールと化すので、どんどん使いやすくしていただきたい。今もできるしお世話になっているが、他大学の所蔵資料や、特に外国の書物・論文などを入手するための図書館ネットワークをできれば国際的規模でつくりあげてもらいたい。国際統一OPACも。ムサビをはみだすが、どこかが統一して(古い/価値ある)書物のデジタル・アーカイヴ化(pdf等で)をどんどん行ってもらいたい。何しろ複製だろうがなんだろうが入手できないと研究が進まない。また、美術的価値のある本(書物史的資料、印刷、ブックデザインなど)を展示する、書物の博物館(美術館)があってもいいと思う。無茶を言えば、美術大学なのだから、展示の博物館があってもいいかもしれない(無理だな)。あとは、検索だけではなく、人力のナビゲートがこれからの鍵ではなかろうか。例えば、「Corbusier」でOPACを引いてみて、どれを読んだらいいかが最初は全く分からない。各教授がそれぞれの専攻分野での書物を関係づけ、単なる「推薦図書」レベルで1、2冊紹介するのではなく一挙まとめて、コメントつきで学生(利用者)向けに提示できればよいのでは。それと、教授陣は長期に渡って借りている本を返す事。など、権利関係の裏事情を知らない、暴論気味にて失礼。
ここ2日、多木浩二『「もの」の詩学』を読んでいる。買ったのは書物山の位置から推測して、今年春ぐらいだと思うが、美術館・博覧会の成立や、秋にヴィスコンティの『ルートヴィヒ』で見た狂気の「ルートヴィヒ2世」の事などが書いてあり、今、この本との第二の出会いを目を見開くようにして体験している。僕が、この人達だけは面白いと思っている二人、蓮實さんと多木さん(本人同士は相容れないのか?)はもはや教壇には立っておられず、教えを受けられない事は残念な限りである。それはそうと、近代デザイン史から観察点を引いて人類史的視点に立つと、いかに現在の「想像力」が、制度化され、矮小化されているか、あるいはいかにシミュラークルの繰り返しになっているかを切々と感じ、と同時に、前近代、中世、あるいはそれ以前の「もの」の未分化あるいは暴力的なまでの無垢さ、異常なまでの拘りなどに魅了されずにはいられない。人類史的スケールで「もの」と人間の関係を考え、そのおよそ結論の出ない繰り返しの中で、人間の能力の豊かさを毎度揺るがせながら、デザインをやっていく、というのが現在の理想の姿である。
それにしてもコルビュジエを記述できる気がしない。あるいはデザイナーの言葉など、よくわからなくて然るべきなのかもしれない。特に肉声の作家なのだから、理屈にかなわなくてもしょうがないのだが、如何せん記述しなければならない。その点、八束さんはすごい。
深夜に何やら駄文を書きすぎた。
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