今日は明日に備えて宮崎駿作品を見直そうと思い、『ルパン三世カリオストロの城』と『風の谷のナウシカ』を観た。ナウシカは小学校ぐらいの時にTVを録画してそれなりに何度も観ていたが、あの頃はこの映画の「ストーリー」なんざ全くわかっていなかったことに気づく。今見てもなんとかっていう独特の言語の国の名前が口にされるだけで空間的な配置は全く分からないが、なにかを目的に国々が争っている(まだよくわかってない)。しかしさしあたってそんなことはどうでもよく、当時僕はアニメの見方を知らず、何かよくわからないものと戯れるようにして「ナウシカ」を観ていたことが思い返された。問題はその無知ながら戯れる、という状態が、物事との本当のふさわしい体験なのではなかろうかということである。実際、近頃フランス語を修得しようとあれこれ手を尽くす中で体験される、言語を修得するという過程との貴重な戯れは、日本語を使っている中で制度化されてしまった、言語に対しての思考をとてつもなく揺さぶる。それについては今日読み終わった蓮實重彦氏の『反=日本語論』を巡っていずれかくことにしたいが、その制度的思考態度が、アニメを観る、という体験についても当てはまっていたことを今日、「ナウシカ」が、あるいはそれを通じて蘇った少年時代の体験が、教えてくれたのである。
明日はカメレオン・プロジェクト・コロキウム2006である。未知なるものとの無知なる戯れを期待しつつ、束の間の眠りにつこう。
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