いわゆる「オタク」達がアニメを牛耳り、それに迎合して形式的な記号ばかりで描かれるようになったと感じる昨今、あるいは、宮崎駿作品、あるいは大友克洋作品ぐらいしか観ないくせに意気揚々とそれを顕揚する怠惰な「アニメファン」がはびこってしまった昨今、アニメからは遠ざかるばかりだったが、カメレオンの取材で鼎談した佐分利さんの薦めに快く応じ、昨日『ゲド戦記』と『時をかける少女』を立て続けに観てきた。
二つとも夢中で見入り、涙さえ流してしまったのだから、正確な評価をここですることは不可能であるということを前提とすれば、「天才の息子の、親の七光りだけではないのか」といった前者と「貞本義行の絵を借りた、リメイクで一儲けするいつもの悪ふざけではないか」といった後者の、二つの危惧は心地よく裏切られることに相成った。『ゲド戦記』は僕がなんと言うかにかかわらず、確認のために誰もが観るであろうが、『時をかける少女』はだまされたと思って観に行くことを沽券にかけてもお薦めしたい。あのキャラクターを演技させる表現力と、演出力は、ただごとではないし、タイムリープによる同じ場面での反復と差異によって物語をつないでいく巧みさ、時折挿入される携帯のバイブレーターやLED式信号機などの気の利いた現代的モチーフによる演出などは、いつしか私を武装解除させ、感動へと導いた。それは子供だましでも、大人を騙す衒学でも、「萌え」への迎合でもない。心あるアニメ作家は生き続けていたのだ、アニメを観られる時代にいてよかった、と思わせてくれる映画であった。『ゲド戦記』も、親父の築き上げてきたものと、親父のオリジンであるル=グウィンの原作に真摯に向き合い葛藤し、反逆的とも言える強烈な解答を突きつけ、そのことになにやら得体の知れない感動的な動揺を覚える作品である。
2006年8月アーカイブ
ここ2日ぐらいオトレの伝記を読みはじめている。まだ弁護士になる前の若き日々。
・子供のときから膨大な日記をつけていた。
・メモ魔。
・そしてそれらをすでに15歳以前に自分なりの分類システムを作って分類している。(カテゴリーごとに分けられたノートのページに、そのメモを貼付け、一冊の総合性を持ったノートができる=おお、既にオトレ書物論開花!)
・イエズス会信仰を貫くか実証主義に走るか悩み、後者に。
・おやじは西欧全土に鉄道とトラムの線路を敷設し、リオ・デ・ジャネイロのガス会社で大もうけした超金持ちで、島さえ持っていたほど(その島でオトレ君は最初の本を書いて自分で印刷してる)
・おやじのおかげで少年時代はイタリア、フランス、ベルリン、ロシア、ルヴァン島、ニース、モナコ、ノルウェーとかに旅行
・で、おやじはエドモン・ピカールや詩人(1人目の母の家系。ちなみに3歳のときに他界)、冒険家達(2人目の母の家系)との交流があった
・そんでオトレはパリに留学したときにピカールのいる集まりに入って、レモニエやマラルメ、ローデンバッハのいる象徴派文学サークルに突っ込まれる
・22歳で弁護士になってピカールのところに見習いに
・その冬、長年の求愛の末にフェルナンドさんと結婚。
・おそらくいたって真面目。
若い頃は悶々してらっしゃったのね。
なんか嫁さんに告白する場面とかが詳細に書かれていて、ドキドキしながら訳すの楽しいんだけど(告白の返事は小さな封筒に入った手紙に「I love you」って書いてあったとかさっ。でもフランス語だから「Je t'aime」かなんかだろうけどっ)、こんなことに時間かけてていいのかと思ったりして。
明日は初めてフランス料理を食べます。
両親と。
ムンダネウムのステファニー・マンフロワさんがメール返してくれない....。
財団レポ8月号書きました。
バイヤーの「世界地理地図」とノイラートの「ゲセルシャフトとヴィルトシャフト」の類似性をきっかけとして、後者の成立背景をオトレ、イェックらとの関わりの中で書いてみました。
http://www.imrf.or.jp/~otakio/monthly200608/
画像の著作権って典拠を示せばいいのかな?
問題があればご連絡ください。
新しいものを作るというのは、今まで作られてきたもの、思考されてきたものの枠組みの延長を作るのではなく、それよりももっと根源的なものにたどり着く、ということなのだと最近考える。未来は、過去の過去にある。そのとき、はじめて過去を乗り越えることができるんじゃないか。どこまで遡るのかは問題で、未来を作ることを忘れてはいけないのだけれど、現在の生活との兼ね合いの中で、良い関係を保っていければいいのではないかと思う。
モダニズムのある部分は、過去を消却してしまったけれど、そうではないモダニズムも存在したことは、オトレやノイラートを見ていてわかってきたことだ。
古くさいと言って馬鹿にする人もいるけど、古いものと、単に古くさいものとは違うし、そこにしか未来は無いんじゃないかな。
歴史をやっていると、「それで、あなたは次に何を作るの?」とよく聞かれる。そんなものは自分が一番考えているので、やめてもらいたい。そもそも、今まで語られてきたデザイン史があまりにも嘘と捏造だから、自分がこうして時間をかけて掘り起こさなければならないのだし、単に「きれい」だとか「面白い」ものを作るだけではいけないと気づいたから、デザイン社会学の根本原理を組織し直しているのである。その辺の「大したことない作品に数学とかの理論を持ち出してこなければ作品の価値を作り出せない人」と一緒にしてもらっては困る。ついでに言えば、「先生がやってるから」やっているのではない。ちゃんと自分で思考してやっているのだ。人のことをなめてもらっては困る。僕はクレバーに世の中を渡っていく人生なんかまっぴらごめんだし。
割と理解されていると思ってる人たちから言われたので、さすがに幻滅した。
無職と研究者には厳しい世の中だ。
本当はうまく説明できない自分がいけないのだけど。
実は、旅行というものは、実際に現地にいるときよりも、準備・計画のほうが遥かに重要で大変な作業であるだろう。「本当に見なければならないもの」「見ておく事が今後の役に立つであろうもの」を旅行目的によって絞り込み、当日の行動の実現性を、拠点となる宿泊地、アクシデントを考慮した移動時間・疲労度などから推測し、旅程を組む。そして当日は、実際に各地を訪ねていく体験から、何度も何度も旅程の再編集を重ねながら旅行を遂行し、思いを記録する。これらの編集過程の中で旅行者は、自らと対話し、なぜここに行こうと思ったのか、なぜここに行かなければならないのか、といった動機の部分を何度も何度も書き換えることを迫られ、今まで思っていた事との差異から解釈を書き直し、人生という名の旅行の旅程を組み直すであろう。旅行という編集のプロセスは、何の事はない、人生の編集のプロセスと同じなのである。
今日、必要資料をリストアップしていた中で気づいたのだが、あの、ノイラートの社会経済博物館がそのスタッフとピーター・アルマやチヒョルトなどを動員して作った、100枚からなる(それは美しい)特大の世界文化のダイアグラム集『ゲセルシャフト・ウント・ヴィルトシャフト』(ムサビ図書館蔵)の刊行は、ノイラートとオトレが出会った後の1930年である。坂本女史の修士論文付属の年表を見ると、その計画開始は1929年で、ノイラートとオトレが1929年に出会ってさんざん二人で「世界文化の地図帖を作ろう」と言っていたのだから、ノイラートはこの本のアイデアをオトレから影響を受けていると考えるのが自然である。そう思ってVossoughianの博士論文を読み直していると、僕が翻訳をミスっていた箇所があった。そもそも『ゲセルシャフトとヴィルトシャフト』を英語だと「Society and Economy」なんてつまんない英訳がされていたのだから気づかなかったが、どうやらノイラートはこの本の制作にオトレと世界宮殿を巻き込もうとしていたようだ。しかし最終的には出版元のライプツィヒ書誌学会がそれを却下したという経緯である。おお、このすばらしい地図帖にオトレの影響があったとは、研究していた甲斐があるというものである。オトレがノイラートに全世界的規模の組織化・視覚化という視点を与えたというのは言えると思うのだが、そう考えるとノイラートの小ダイアグラム集『色とりどりの世界』だってそうだ。(だとしたら間接的にバイヤーにだって.....というのは別に嬉しくはないが)
神話化されたモダニズムの解体作業は、本当に面白い。こうして贅沢な時間の使い方ができるのも、ひょっとしたら今だけかもしれない、とふと考えると、涙が出そうになる。卒業後、制作を主に置いていくと、ここまで論文と面つきあわせているわけにもいかないかもしれない。しかし、何か、少なくとも日本のデザイン史の見方を誰かが変えてくれない限り、やり続けなければいけないだろう。きっと、筆は、一生置けない。
今日はいつものアテネの後に財団に行くと、久しぶりに武藤さんが来ていたので、またみんなで肉屋の豚カツ「大野屋」に行く。なんでも、8月終わりにアルス・エレクトロニカを見にリンツへ行って、また9月終わりに新婚旅行でイタリア・フランスへ行くそうだ。ひょっとしたらパリで僕とランデヴーしたりして.....。
最近どうも昼食後に眠気に襲われてたまらないのだが、今日も小昼睡して、Rayward氏の書いたオトレ研究史・史を抄訳しながら読む。昨日ひっくりかえしてたブリュッケ関係は、佐藤氏だけではなく、Rolf Sachsse氏がweb上で公開している研究と、Thomas Hapke氏の研究があるようだ。ゲデス関係はヘレン・メラー女史のものが詳しいようだ。
帰って、明日返すビデオ、すなわちトリュフォー『家庭』『逃げ去る恋』を見た。アントワーヌ・ドワネルものをこれで一応全部見た事になるが、後者に出てくるドロテー Dorothéeという人が、もともとTVアナウンサーらしいのだが、いい魅力を放っている(まあ正直に言えば、「素敵」なのだが)。今週のアテネの先生(拙日記で前出のゴダールの映画に出てきそうな服装の日本人のマダム)は、自称「映画狂」で、まあ経験的に、そうやって言う人は大して映画を観てないのだが、その人はフィルムセンターなどに通って小津をサイレント時代から全部見ている、成瀬もそうだという時点で、ワタクスはお見それしやしたと見直し、彼女がお薦めする『蟻の兵隊』を見てみようかな、と手のひらを返すように、思うのであった。同じく前出の、バスク地方について研究している女学生は、テリー・ギリアムが大好きだそうだ。かなり濃ゆいクラスである。
ひとつも外国語を流暢に喋れるようになった事が無いので、フランス語で会話できるようになって、英語とドイツ語もゆくゆくはできるようになりたいと思う。言語主導権を握ると、どうしても国家間に優劣が生じるので、そう簡単に国家を二重言語化しようとは言い切れないが、国際語というのはやはり必要であるとつくづく感じる。日本人は日本語を使って、韓国人はハングルを使って、中国人は中国語を使って....というのは、不経済ではある。文化の差異を生むというのは確かなので、その辺は面白いとしても、それ以上の必要性もあるんでは。まあこれは今後の課題だ。
ここのところは、フランス語と、ベルギー行きの必要資料リストを作っています。
ネット上でブリュッケ運動の1913年の参加者リストを発見したのだが、オトレとエルンスト・イェック、オストワルトらの名と共に、なんとドイツ工作連盟創設者ムテジウスとペーター・ベーレンス、カール・シュミット(シュミット・ヘレラウ?)らの名がある。これらからイージーにも推測できる事は、かの有名な1914年の工作連盟規格化論争(ムテジウスvsヴァン・ド・ヴェルド)に現れている「国際規準化」という考え方は、このブリュッケの中に既に発見されるという事である。彼らの参加の度合いは読み込みが必要であるが、その後1929年にオトレからノイラート、イェックを経て、「新時代」展という形で再び絡み合うこの2潮流(工作連盟とオトレ)の、思想的関連をあれこれ推測せざるをえない。
そもそも、去年の今頃、ドイツ工作連盟のレトロスペクティヴの図録を見ていて発見した「新時代」展(実現はされなかった)のコンセプト・ダイアグラムが、ノイラートの思想と非常に共通している部分があるではないか、という直感は、今考えると、オトレにあったサン=シモン的流れにある全学問の統一的な組織化の考え方が、ともすると、ノイラートに伝わり、あるいは、イェックに伝わり、工作連盟の「新時代」展にもたらされたのではないだろうか、と考えるのは、不自然ではない、かもしれない。
少し前後左右を突っ込んでみよう。
色んな線で歴史を見ていくと、いつかこんな風に面になるのだなあ。