朝、晴天の下、チャリで小川の歯医者に行き、また歯石を取ってもらう。今日は痛かった。血だらけ。また歯磨きの仕方を修正してもらった。
歯医者友達のナコさんとデニーズで昼食を取りながら研究についてあれこれ話した後、学校へ行き、図書館で書籍取り寄せをお願いする。担当の太田さんがフルネームを憶えてくれたみたいで嬉しい。その後、ナコさんとコメニウスやウィラード・ブリントン Willard Brintonについて話す。世の中にはブリントンとノイラートの関係について論文を書いている稀代な方がおられます。
帰りがけにRCAの田中さんにEMSを送りに鷹の台の郵便局に寄り、家に帰って洗濯と宅急便を出し、夕飯を食べた後国分寺のスタバに行ってmundaneum.com(閉鎖)の記述を訳す。久しぶりの仏語に最初は戸惑うが、読んでみると以前より意外と読めるものである。どれが冠詞で、どれが助詞で、などということがわかっていれば、文章における単語間のつながりは英語でも仏語でも共通で、それが身体化されていればさほど障壁はないのだろう(もちろん語順は違うが)。外国語を修得するというプロセスほど、人と言葉について動的に考えさせられるものはないかもしれない。人間の身体化能力の信頼。
スタバの後は、ガストで粘る。
水曜日の研究小発表までに事実関係をまとめようと思ったけど、どんどん広がってきたので、困った。昨日の夜中もVossoughianの論文を興奮しながら読んでいて、ノイラートとオトレの関係が思ったより緊密で、お互いに影響を与えあったということがわかった。といっても1年ほどなのだが、ノイラートが1929年にオトレの「世界宮殿」を初訪問したことにはじまり、1929年の“Novus Orbis Pictus”(コメニウスの『世界図絵 Orbis Sensualium Pictus』[1658]から取った、Novus = 新しい、世界図絵という意味と、Otto NeurathとPaul Otletの頭文字をあわせたN.O.P.からつけられた)のプランニングを通じて緊密に関係していったらしい。その間、シカゴ科学工業博物館のディレクトをしていたWaldemar Kaempffert、マグデブルクの市長、ポーランドのポヅナンの権威、オランダのVredes-en Volken-bondstentoonstellingのディレクター、ニューヨーク市立博物館、アメリカ博物館協会委員会、工作連盟の「新時代」展を企画する事になる政治学者エルンスト・イエックなどと二人は関わっていったが、しかし最終的には意見の対立と1929年の株式恐慌の為、計画が分裂したらしい。その後も連絡は取りあっていて、ノイラートが彼の博物館を「ウィーン・ムンダネウム」「ハーグ・ムンダネウム」などと名前をつけたり、『社会と経済』という名前の共著を出そうとしたり(実現せず)、ノイラートの社会経済博物館でオトレと共同で展示をする計画があったそうだが、実際的な共同作業が行われたかどうかは定かではないらしい。ふむふむ。
他にも、オトレがハーバート・スペンサー、オーギュスト・コント、エドモン・ピカールの弁護者だと公言していたり、ノイラートが工作連盟に寄稿していくプロセスが書かれていたり、コルビュジエ=P.ジャンヌレとのムンダネウムのエピソードなどが書かれていて、とても貴重な論文だった。
オトレとコルビュジエが1928年に出会ってから、ムンダネウム、世界都市、ノイラートとの出会い、N.O.P.までがたったの2年であり、この緊密な連帯に何か運命的なものを感じずにはいられない。
それにしても、欧米の研究者は一次資料がいっぱい見れて、書簡とかまで見れて、しかも迅速に読めて、ずるい!と思ったりする。
さて、どう発表しようか。
詳細がわからないものがたくさんある...。