11月のつぶやき

今年も『ナイアガラ・カレンダー』を聴きながら1年を振り返る時期がやってきた…。「クリスマス」音頭から「お正月」に横滑りし、先頭に戻って「みなさん!あけまして おめでとうございます」してまた1年を繰り返す脳内年越しシミュレーションを、現実界で正月気分が薄れる頃まで繰り返すのだ…。まあいつ聴いてもいいのじゃがこの時期はとりわけ良いものじゃ…。

10月のつぶやき

ようやく『パシフィック・リム』を見たのじゃが、わしには良さはわからんかった…。ステイサム映画を見るようなノリで見ればよいのじゃろうか…。それならステイサム映画のほうがいいのじゃが…。

6月の下書き

フランスでカザンの『波止場』を見た時に知人と話をして以来再見したくなっていた『我が谷は緑なりき』をようやくDVDで。地上にこれ以上美しい映画があるのか。ジョン・フォードは天使である(ヴェンダース主義者だと思われると困るが)。

その後なぜかシャマランの『アンブレイカブル』『スプリット』『ミスター・ガラス』を一息に見る。現代にこれほど悠長に映画を撮る監督もそういまい。その気になればいつでも続編が撮れるのだというように、説話のエコノミーから遠ざかり、たっぷりとカメラを回し続ける。それは観客を惹きつけるのに十分だが、しかし本気で怖いわけでも、納得いくオチが待っているわけでもない。ミュータント映画を撮るには派手なSFXや特殊なスーツなど必要でなく、ただレインコートのフードをかぶらせ、「常人」の信念を揺らがせるだけで十分である。

….とここまで書いて、シャマラン映画について書くことに時間を使ってるのがバカバカしくなり、放置したのだった…。

日記 20190605

京マチ子氏の訃報。3日ほど絶望を禁じえず。他のどんな女優の訃報よりも深く響いた。彼女はフィルムの中でいつも誰かと戦っていた。男とも、女とも、そして自らの運命とも。演じるとは何か、女とは何かを教えてくれたのは彼女であった。強さの奥底にいつ切れるともしれない細い糸のような弱さを湛えている人だった。画面の中央にバストでおさまり台詞を言うだけで画面全体をふるわせられる存在だった。『浮草』『あにいもうと』『赤線地帯』。もうこのような女優は出ないであろう。一つの時代の終わりに喪失感を感じずにはいられない。合掌。

なんとか連載最終回を脱稿し、宇都宮の勝井先生の展示へ。武蔵美での退任展では監視バイトの特権を利用して作品を隅々まで眺めたし、富山、筑波など折に触れて展示に足を運んで先生の作品の全貌は見渡した気になっていたけれども、今回もまた、予想通りと言うべきか、驚かされることとなった。確かに先生の作品には科学的モデルやアルゴリズミックな構成から取られたものが多い。しかしそれは単なるベースでしかなく、その構成を解き明かしたところで先生の作品の魅力に到達できたとは言えない。どうやって発想しているのか、どうやってディレクションしているのか全くわからない部分にこそ先生の作品の凄さはある。勝井先生には宇宙が見えてるとしか思えない。それにあのポスターで展開される作家性と、ブックデザインに求められるような、作者のテキストを活かす裏方的な仕事の双方が、全く矛盾なく両立されているところ。猛省を促されると同時に、お前にもこのような感覚があるのだと胸の奥を揺さぶってくるような体験だった。
私はヨーロッパでデザインとデジタルメディアが感覚世界を破壊する様を見てきた。なぜヨーロッパでそれを感じたかというと、日本では既に死んでいるからであろう。しかしながら勝井先生は常に現在を肯定し続け、未来を描き続けている。「デザインする」ということが未来を作り出す思想であることを先生は体現しているのだ。先生が政治的意見を表明しているところなど見たことがない。デザインに徹することが慎みであり職業的務めであると言うかのように、先生は美しいものを作り出し続ける。しかしながらその背後には、国境を超え、科学的分業さえ超えた全人類的感覚によって新しい世界を生み出すのだという思想が確かにある。そのような信念がいつから先生に芽生えていたのか。教育大での教えであるのか、世界デザイン会議なのかはわからないが、それが先生のエンジンの1つになっているのではないか。絶望などしている場合ではない、世の中を変えることができるのがデザインなのだと先生は言っているようであった。

2年の連載を終え次はどう動くかを考えながら数日が経った今日、目を覚ますとスイスの友人Aから朗報が届いていた。ニコラ・ブーヴィエのテキストをまとめていた仕事が終わり出版されたという報せと、フンボルトについての彼の新しい論文が添えられていた。彼は地理学のアカデミズムに背を向け、中学で地理を教えながら執筆・出版活動を続けている。ルクリュのように子供たちに未来を見ているのだろう。最近は気候変動に対する子供たちのデモに寄り添って書いた記事を送ってくれた。いつも彼の報せには助けられる思いがする。いつかお返しができたらと思う。

土地の塩

『山猫』修復版のプリント上映。ありえない上映ミスに、嗚呼フランスだけでなく日本もか、と嘆息を漏らす。おまけに最初からかけ直さないときている。観客のマナーも耐えられないぐらい悪くなっているし、そろそろ映画館に行く勇気がなくなりそう。
舞踏会に集う品のない若者を見ながら「猿のようではないか」と目眩を覚えつつも、アラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレのカップルが湛えている「若い」という美しさに希望を託し、自らは山猫として死ぬことを選ぶバート・ランカスターの側に、いつしか自分は立ってしまった。あと20年経ったら号泣してしまうかもしれない。

「アトラス考」第8回

次回の終章を残して本編としては最後となる『アイデア』連載。フンボルトの自然観に始まり科学と社会の近代化による世界観の変化を追った連載の最後は、生態系概念や自然保護運動の先駆者であるエリゼ・ルクリュの地図学的業績について迫ります。近代化によって喪失した自然に対する感受性を取り戻し、文明人を「自然」の中へと再統合させようとした彼は、人類とあらゆる生命が拠って立つ裸の大地のイメージを正しく描かなければいけないという信念を強く持っていました。最も敏感で人間性に満ちた人物による、最も繊細な環境イメージ論。

アトラス考──生態学的世界観の視覚化
第8回 自然に対する感受性と地球の描き方 エリゼ・ルクリュの地図思想
http://www.idea-mag.com/idea_magazine/385/

[正誤表]
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「アトラス考」第7回

残すところ2回の『アイデア』連載、第7回は19世紀最後の四半世紀に「カルトグラム(統計地図)」を決定的に確立させたE・シェッソンの『図的統計アルバム』を扱います。19世紀全体を通じたフランスの産業化の完了と万国博覧会による知の交流の流れを受け、国民国家が成立する過程の中で統計グラフィックが果たした社会的役割と視覚化の方法論を辿ります。ある種例外的なので殊更に騒ぐつもりはありませんが、その中には何と19世紀の「時間地図」と呼べるものまで。こうなるともはやデザイン史とは一体何だったのかとさえ言いたくなってきます。

連載│アトラス考─生態学的世界観の視覚化
第7回 エミール・シェッソンと『図的統計アルバム』――国民国家のフィードバック機構
http://www.idea-mag.com/idea_magazine/384/

紙風船

渡仏した当日にようやく滞在先が決まる。友人宅に泊めてもらうことになっていたがフイに。直前までバタバタしていたので機内ではほとんど寝ていたが、少しだけ気になっていた『Molly’s Game』だけぼんやりと見る。ケヴィン・コスナーの生存確認。

シネマテークに見に行った山中貞雄『人情紙風船』に打ちのめされ、終わっても席を立てず。大雨の中、雨宿りをする質屋の娘を見ながら何やら良からぬことを思いつき、ギロッと変わる中村翫右衛門の目つきが、これから起こる悲劇を全て予兆する。生き生きとした町人たちの淀みない動きと聴覚に心地よい台詞回し。肝心の場面を敢えて見せない粋。空間の使い方…。一緒に行ったフランスの友人も感嘆し、「雨のシーン…!」と言っていた。いくら貧しくても心は気高くなくてはいけないという心構えをいつしか忘れてしまっていた。「しかし凄かったんだがやっぱり日本映画は(悲劇ばかりで)生きる気力を与えてはくれないな…。」とも。相すいません。日本映画特集で、他にも見たいものはあったのだが小津の『出来ごころ』だけ見て終わる。忙しくなったところでベルイマン特集とジェーン・フォンダ特集に変わって、よしよしと思っていたら、その後ルノワール特集が始まるとのこと。

10+1

「形象化された世界──《都市の記述》とその表現」
http://10plus1.jp/monthly/2018/10/issue-03.php

まさかの建築方面からお声がかかって、お題の「都市の記述」についてできるだけ虚勢を張ることなく率直なところを書きました。個人的にはより広い「世界の記述」に取り組んでいる最中であり、急な話でもあったので新しい調査はできませんでしたが、いつか書かれるべき「都市編」の序論として、問題意識の地図化ができたのではないかと思います。尚『10+1』は50号で終了後、Web雑誌として続いているとのことで、今回は第3号の「ノーテーション・カルトグラフィー」特集の回顧と更新が主旨という話でした。