明日はロンドン地下鉄タイプフェイス・リニューアルのあの方がいらっしゃるそうで、基礎デの友人と共に楽しみ極まりないが、またパーティー。
Orwellの「Animal Farm」を取り寄せたが、思ったより英語が難しい.....。
松井さん、jagdaのアレ、ありがとう。面白いです。
ストローブ=ユイレ特集
大琳派展 〜11.16
「可視から不可視へ」「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」「河の上の愛情」11.23
「ブロークン・イングリッシュ」12.13
「チェチェンへ アレクサンドラの旅」12.20
「動物農場」12.20
「我が至上の愛 アストレとセラドン」正月
オットー・ノイラートは
オランダ人で、
実際にあまり本を書いておらず、
(著者のように)デザインを自分の仕事とし、
あまり理論立った追求はさほどせず、
日本の紋章の影響を非常に多く受けており、
今見ると非常に古くさくて、
今日的にも意味が少なく、
もう過ぎ去った歴史で、
問題を含んでおらず、
彼の出した問題の次元では、
今日に役立たない
のだそうです。
もちろん、
ノイラートは
そもそもオーストリア人で、
数十冊の本を書き、
デザイン・社会経済学・哲学・ミュージアムディレクター・社会運動家を仕事とし、
徹底した理論立った追求をし......
云々と訂正できるが、
それはさておいても、
ここで国粋主義的に引き合いに出されている家紋とアイソタイプは遥かに違うし、
百歩譲っても「もう過ぎ去った歴史」とは何たることだ!!
こんなもの焚書だ!
と久しぶりに本を読んでて腹を立てました。
図書館の本だから燃やさないけど。
大体何かにつけて家紋の話を引っ張りだしてくるのは悪い癖だと思うが。
今週はフィリピン教育演劇協会のアーニー・クロマさんが来ていて、授業をなさっている。研究室が国際的で活気があって楽しい。課外講座でもちょっとしたゲームで一気に聴衆との一体感を生んだ。毎日帽子が違うが、印象をリフレッシュするためだろうか。
今日は朝から張り切って図書館に籠り、昨日の話の整理と研究の練り直し。意気込んではいたが、卒業後(といってもあと一年で出れるかさえグレーだが)のことを考えると「こんなこと何かの役に立つんだろうか?」と若干ダウナーになるが、帰りに本庄さんに会って温かい言葉をかけて下さって、昨日木本さんが言っていた「本当の知り合い」というのはこういうことなのだと実感する。何にせよ、勉強不足極まりないので帰って精進することにする。
最近見たもの
「鳥」「引き裂かれたカーテン」ヒッチコック
「汚れた血」レオス・カラックス
George Orwellの「1984」をPenguin Readersで。
まるでナチや北朝鮮のような情報統制社会の設定は、未だに古びていないが、一党独裁ではなくて、あくまでも、上流階級が「権力」を守らんとするがために生まれた社会らしい。激しくダークでダウナーだが、Outer Partyが反抗を考えられなくなるように、新言語(Newspeak)の辞書から反抗にまつわる単語さえも削ってしまったり、党の年間目標が達成されなかった時に、それがさも達成されたかのように過去の新聞を書き換えたりするあたりはワクワクする。本を閉じると頭の中ではデヴィッド・ボウイの「1984」が流れまくる。何せ「党首」の名前とされる「Big Brother」の響きが最高でしょう。Big Brother is watching you!!
5TANDA SONICでの三澤君のグループ展を観に行く。IDの展示は久しぶりで、刺激になりました。
国分寺以西に行くのは本当に久しぶりだ。車中では、昔よく多摩美にバドミントンしに行ったのを思い出す(ついでに麻雀もしたり)。郷愁はさておき、まず久しぶりに降りた町田の(渋谷のような)栄えっぷりに驚くと共に、いきなり登場してカーステに合わせてクラクションを鳴らすヤン車に面食らう。国際版画美術館への道は、駅前の喧噪からいきなり森の中へと入っていく下り坂で、公園の遊具で遊ぶ子供達の声が眩しい。
リアル・ピラネージ(といっても版画だろうというツッコミはなしで)を見るのは初めてで、存在を知ったのも東大博物館での展示のカタログからだが、まずその描写の緻密さに引き込まれ、どっと疲れる。3部構成だとは知らずに見ていて、やっと終わったと思ったらまだ第1部で唖然。ルネサンス以来のヨーロッパ人にとっていかにローマ帝国時代が全ての源泉であったか。延々とモニュメントが続く「交差点」。遺構の漂わせる魅力。フォロ・ロマーノの地図、そして本物の「カンプス・マルティウス(イクノグラフィア)」。異常な執念。自ら遺物を収集。本当は建築家になりたかった彼がせめてペーパー・アーキテクチャー/版画建築家として「建築」をするのだという異常なまでの執念にやられる。
常設展で池田満寿夫展がやっていたが、ピラネージのおかげであまりじっくり見る気にもなれなかった。帰りに公園の噴水に子供が入ってバシャバシャと走り回っていたが、帰って母親に怒られることは間違いなかろう。美術館はいかにも市民の美術館、といった風情だったが、新宿から30分だと思えば近いものだ。
その後小田急で新宿に出て(小田急にこんなに長い距離乗るのは初めてに近い。ニュータウンやらセタガヤやらが車窓に見える)、市ヶ谷→豊洲と乗り継いで芝浦に行き、LeopardとCS3、バックアップ用HDDを取って帰宅。家でバックアップ→OSアップデート→CS3インストール。Firefoxも3にしたが、なんかSafariっぽいじゃん。それと並行して夕飯とヒッチコック「ロープ」。前日はヒッチコック「知りすぎていた男」。すげえの一言。DVD特典のメイキングも秀逸。
金曜の夜間開館で上野のフェルメール展。
最初にフェルメールを見たのは高校生ぐらいだったかのときに、愛知県美術館にやってきた「恋文」で、もちろん驚きはしたけれども、フェルメール作品は35作品しか現存していないことを知らず、「なんだフェルメール展を謳ってる割にはレンブラントとか他の作家との抱き合わせじゃないか」なんてふざけたことを思った記憶がある。次に見たのは去年デン・ハーグのマウリッツハイス美術館で見た「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの眺望」だが、不思議とそれほど感動しなかった。「少女」は印刷物で見すぎたせいか、「思ったより青くないなあ」と率直に言えば思った。「デルフト」は僕が鈍いだけだろう。
それで、今回。壁紙の装飾と解説に対する疑問はさておき、7点ものフェルメールがまとめてみられる特権的状況はすばらしいし(「絵画芸術」が来なかったのは惜しい)、緻密な描写、布の超現実的な質感、フレーム効果はもちろん、遠近法というフィクション性を強調する流れで見れば、不自然なスケールの操作(イス、机、顔...etc)に目が行き、それが生み出すフィクション性は、まるで小津映画のようだった(このたとえはどうかと思うが...)。直後に展示されていた物を見ると、解像度の悪いjpg画像を見ているかのようだった。もちろん図録では全く再現されていない。
昨日は図書館で一日勝見さんの本を読みふけったが、以前私が「忌むべき時代」だと言ってしまった60年代は、勝見さんがいなければ、もっと鎖国化されていただろうことは間違いない。ただ、やはり盲目のIndustrialismは嫌いなのだが、戦後から高度経済成長にかけて、それが必要だったのは受け止めなければならない。
来月からは
http://otakio.net
で見られるようになります。
またMovable Typeがバージョンアップしていじり方がわからなくなった。
また半日を潰す。
最近の読書:
「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生
「Strangers on a Train」Patricia Highsmith (Penguin Readers)
「The Canterbury Tales」Geoffrey Chaucer (Penguin Readers)
「The Black Cat」Edgar Allan Poe (Penguin Readers)
「都市の鍼治療 元クリチバ市長の都市再生術」ジャイメ・レルネル
「映画論講義」蓮實重彦
英語学校で貸してくれるPenguin Readersシリーズが英語の難度も調節されていてちょうど良い。マンガの「チェーザレ」が全然分からなくて(半分は僕のせいじゃないと言いたい!けど)、ふとツタヤで手に取った塩野さんの本にのめりこむ。これ読み始めるとあのシリーズも読まなきゃいけなくなるなあ....。こわ。あとは、NY Timesのクルーグマンの記事を読みながら、今回の恐慌の仕組みを学んだり。
最近の映画:
「東南角部屋二階の女」池田千尋
「その土曜日、7時58分」シドニー・ルメット
「カポーティ」ベネット・ミラー(DVD)
「その土曜日」のせいでフィリップ・シーモア・ホフマンが頭から離れないので帰って「カポーティ」。「東南角部屋」、グッド。店をたたもうとする香川京子に涙腺が緩む。加瀬亮、天才。
町田のピラネージと汐留の村野藤吾と渋谷のミレイと上野のフェルメールに行かなきゃなあ。
今日も自宅の外からは絶唱が聞こえる。その自己陶酔気味でただ音がでかいだけの絶唱の主は、性別が男であるということ以外は、今日も知れない。今までは歌っている曲の名さえ班別がつかず、おそらくは色々な曲を歌っているであろうその声は、いつもあまりにも同質過ぎて、固有名詞のない次元に達し、ただその振動を中空に霧散させているだけであった。今日の収穫と言えば、歌っていた曲の一つがGLAYの曲(あれは、なんという曲だったか)だということだけだが、そんなことを考えていたそばから、17時を告げるジョン・レノンの「IMAGINE」が、近所の大学から聞こえてきて、言い得て妙な齟齬感を生み出していた。
そんな午後であるが、最近と言えば、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」が紡ぎだす、絶望感と諦念に満ち満ちた世界の中で生きていく希望を見いだそうとする姿勢に心洗われた。カラカラという音を立てて舞う新聞紙。ベランダに向う開けっ放しの窓から入り込む突然の夕立に気づき、窓を閉めて水たまりとなった窓際を慌てて拭くが、ふと手を止めて再び窓を開け、夕立を見つめ恍惚とする女性、というオープニングシークエンスから、優しさに満ち満ちたキャメラの眼差しは、リストラを隠しながらあくまでも父としての威厳を保とうとする父親、それを空しいことだと感じつつも母親役に徹しようとする母親、いつも守られてばかりの日本と自分をダブらせるように苛立ち、米軍に志願する長男、教師の嘘、父親の空威張りに疑問を感じ、父親の反対を押し切ってピアノを習い始めるが父母にはそれを言いだせない次男、というどこにでもありそうな家庭の、目に見えないような小さな亀裂が徐々にひび割れと貸し、不協和音を奏で始める過程を見つめ、偽りも虚勢も崩壊し再び食卓についた家庭に生まれていく小さな希望をただひたすらに見つめ、聞き入ろうという姿勢に、現代を生きるということの全てが表象されているように感じられ、スクリーンを見つめている者達にも希望を浸透させていく。線路の真横に設定された嘘のように美しい家のセット、嘘のように曲がりくねった坂を始めとする、フィクション性を際立たせるような「帰り道」、ハローワークのいつ終わるとも知れない螺旋階段の途方もなさ、自由を叫びながら橋の下の川に放り捨てられるチラシ、公園で配給された食事にすがりながら、虚勢を張るように呟かれる「これ、まずいよな」「ああ、まずい」の言葉、映画的記憶がフラッシュバックする海岸の小屋、なんとも滑稽な津田寛治とその家族の身振り、前日の天ぷら油で揚げた、食べてもらえないドーナツ。それら細部が和音となって、敗けた後に希望を見いだせることの美しさを物語っている。久しぶりに、いい映画を見た、と思った。
そうだ、あのGLAYの曲は「HOWEVER」だった。そして、今歌っているのはなぜか、「天城越え」だ。